パリ14区(Bd. Edgar Quinet)のブロカント | 2018/05

ちょうど1年前に19世紀後半の日本地図を買った、14区の大通りでのブロカント。

今回は、19世紀前半のパリの地図を入手した。
1821年発行で、すでに持っている1867年の地図よりも46年も古く、コレクションの最古記録更新となった。

気づいたら、もう10点以上も集めていたんだな、パリの地図。

地図の題名はChantiers de bois à bruler dans Parisという。
Chantier(シャンティエ)は今では、大規模な工事現場や建設作業場を指す言葉なので、私も最初は「燃やすための木の工事現場とは、不思議なタイトルの地図だな」と思った。

調べてみると、17世紀にChantierという語が指したのは「木材を置いておくための、茅葺き屋根に木造の粗末な小屋」だったという。
電気もガスもない時代、暖を取るにも調理を行うにも必須の薪や木炭を、人々はこのchantierまで取りに来ていたのだ。

そんなわけで木材とつながりの深い単語であり、木樽を作る作業場や造船場のことは早くからchantierと呼ばれた。

ケベックには現在も「Aller au chantier(現代の逐語訳だと「工事現場に行く」になる)」という古い言い回しが、「木材を伐採」する意味として残っているそうだ。

なのでこの地図は、1821年当時のパリの、薪置き場を示した地図である。
正しくは、サーモンピンク色に塗られている部分が当時すでに稼働していた薪置き場で、レモンイエロー色の部分が「新たにchantierを作る候補地の区」として市長らに提案された部分。
いわば、行政のプレゼン書類である。

当時はパリ自体も小さく、今の20区画の姿とは全くちがう。
モンマルトルはパリの外、左岸15区あたりはグルネル村という別の村だった。
シャンゼリゼ界隈は新たなchantier候補になっているくらいなので、よっぽどのどかで寂れた感じだったのだろう。

そもそもこの地図を欲しいと思ったのは、サンルイ島の東側に見慣れない島があったからである。

Louviers島なんて初めて聞くなと思ったら、1843年に埋め立てられて、パリ右岸に組み込まれたのだという。

地図上ではサーモンピンク色に塗りつぶされているので、住民はおらず、純粋に薪置き場として使われていた模様。

エッフェル塔は、もちろんまだない。

ルーヴル宮殿の形が今とはちがうし、西の端には「チュイルリー城」と書かれた部分がある(1871年に火災で焼失)。
ヴァンドーム広場はあるけれど、オペラ座もオペラ大通りもない。

今の地図を重ねてみると、

赤い長方形が現在のオペラ座、赤い線がオペラ大通り。
なるほどこの大通りは、歴史的な価値の高い建造物のないエリアに比較的自然に組み込まれた道路だったことがわかる。